01太古の占い師: 2008年6月アーカイブ

 日本が国家としての体制を整えたのは7世紀後半~8世紀で律令制の登場時とみるのが定説のようです。律令制とは刑法としての「律」と行政法である「令」をベースにした法治主義的な制度をさします。律令に基づく8つの省からなる中央官庁のうち天皇と直結する行政の中枢中務省に陰陽寮は設置されていました。

 8世紀には大宝令と言う法律で、占いのお役所の機関である「陰陽寮(おんみょうりょう)」が設けられました。陰陽寮は、律令制において中務省に属する機関のひとつで、占い・天文・時・暦の編纂を担当する部署のことを指します。

 長官は陰陽頭で、陰陽道に基づく呪術を行う占い師陰陽師がいました。さらに、陰陽師を養成する陰陽博士、占星術を行使・教授する天文博士、暦の編纂・暦作成を教授する暦博士が設置されていました。その下で学生・得業生が学び、漏刻博士は時計(漏刻)を管理して時報を行っていました。映画化などもされて陰陽師で有名な安倍晴明もこのうちの天文博士に任命されていたんだそうです。

 天平宝字2年(758年)から8年まで「太史局」と改名されていた時期もありましたが、陰陽寮の名に戻り、以後、継続されていましたが、陰陽頭土御門晴栄を最後に、明治3年(1870年)に廃止されました。

 太占(ふとまに)とは、中国の殷(いん)(中国の王朝/紀元前1600年頃 - 紀元前1046年)の時代に生まれた占いの方法です。当時の殷の人々は信心深く、殷朝は典型的な神権政治を執り、重要な意思決定は全て占い師による占いの結果に基づいたそうです。

 その政治の意思決定の際の占いに占い師が用いられたのが、亀の甲羅や牛や鹿の肩胛骨が主な道具です。これ以外にも珍しい物としては、鹿の角や人間の頭蓋骨も使われたりしていました。占いの方法としては、まず、これらの骨・甲羅などの裏側に、すり鉢状のくぼみをつけ、そのくぼみに燃え木又は、熱した青銅製金属棒など差し込みます。

 次に、表側に生じたひび割れの割れ目の形によって占います。そして、その判断を甲骨に刻み付けた後、占いに対しての結果を刻みこむという方法が取られていました。

 日本においては、5世紀から7世紀の間の大和時代にかけて、中国からこうした太占の占いの方法を含めて、様々な占いが伝えられたと言われています。奈良時代に入ってからは、占い師であり、しかも当時絶大なる力を持っていた「陰陽師」が主に活用した方法としては、亀の甲羅を焼いて同じように占う「亀卜(きぼく)」、「式占(しきせん)」奇門遁甲といった占いの方法がでてきました。

 日本における占いの歴史を振り返った場合、一番古い占いの方法としては、「盟神探湯(くがたち)」というものがあります。

 古代日本では、政治の判断や人への懲罰など、何かを決定しなければならない場合には、多くの場面で占いの手法がとられていました。盟神探湯とは、ある人の是非・正邪を判断するための呪術的な裁判法(神判)で、探湯・誓湯とも言われています。

 盟神探湯の方法はとても怖いもので、現代においては考えられないものです。それは、裁かれる対象となる人物に、神に潔白などを誓わせた後、釜で沸かした熱湯の中に手を入れさせます。この時、正しい者は火傷しませんが、罪のある者は大火傷を負うとされました。

 あらかじめ結果を神に示した上で行為を行い、その結果によって判断するということで、うけい(=古代日本で行われた占いのこと。宇気比、誓約、祈、誓と書きます。)の種類に当たります。

 こうした方法で火傷をしない人などいたのでしょうか。無実の罪で裁かれた人がたくさんいたことは容易に想像できます。いずれにしても、古代日本では、こうした方法での裁きが日常的に行われていたのは事実のようです。

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